2010年10月17日(日) – ぼくら田舎バックパッカー夫婦はようやく舳倉島(へぐらじま)に到着した。(前回のストーリーはこちら)
10:30ごろ、舳倉島に到着すると、長髪でサングラスをかけた外国人が、DavidとBrendaを迎えに来ていた。
彼はDavidとBrendaの友人、英字紙Japan Timesで編集をしていたらしい。そして、3人のアメリカ人女性が散歩していた。海外で、ここまで知られている島だったとは驚いた。
ぼくらはもちろん、舳倉島について、全く知らない。
帝国書院の地図帳を見て、「あっ!こんなところに島がある。とりあえず、行ってみるか!?」という、軽い気持ちで行き先を決めている。
人口は100人以上のようだが、実質そんな多くの人々が住んでいるように見えない。
舳倉島には、商店がない。
レストランもないので、島に来る旅人は民宿でご飯を食べるそうだ。
トイレは島の中心に一つ、港に一つ。
神社は島内に7つ。
島の人たちによると、小学校は7~8年前に休校となった。
島の皆は休校と言うが、建物を見ると廃校状態。学校をメンテナンスしている人はいないのだろう。
建物の中に、草が入りこんでる。休校中で、現在、子どもは住んでない。島のおばあちゃんたちは海女さんとして、頑張っている。人口が少ないせいか、島の活気は感じられなかった。
野鳥カメラマンがいなければ、誰もこない島になりそうな雰囲気だ。島を歩いても、ほとんど野鳥カメラマンしかいない感じだ。「舳倉島はいずれ、無人島になりそうだなぁ」と感じてしまう。
そんなことを感じるぼくだが、そんな雰囲気を感じると逆に「これはおもしろそうだなぁ~」と散策がおもしろくなり、いろいろと探りたくなる…
渡り鳥はシベリア、韓国、中国から、暖かい日本に飛んでくるそうだ。渡り鳥は、中間地点/寄留地として、舳倉島で休憩する。
舳倉島は全鳥保護区で渡り鳥の休息地・エネルギー補給地点。舳倉島は、輪島港の北方約50キロに位置し、標高約12メートルの平坦な島。七ツ島や能登半島と同じく火成岩でできているそうだ。
この島の龍神池には、「龍の母子」がいたという、日本によくある龍に関する伝説がある。藩政末期に僧が島に来て、毎晩、島民に説経をしていた。毎晩、説経を聞いていた若い女性は、難破船の錨(いかり)の毒にあたって亡くなったが、成仏できなかったので、僧に助けを求めた。
翌日、島民が、池の底から、樽四杯分になる、二体の骨を見つけた。頭骨は輪島の法蔵寺に、残りの骨は島の分院に納められているという。龍神池は、竜宮に通じていて、決して水が枯れることが無いと言われている。
実際、不思議なことに、この池の水は枯れないそうだ。この龍神池を中心に、二度の火山噴火によって生成された島と言われている。
舳倉島では自動車を見かけなかった。島の人々は自転車を使って移動している。島には、「つかさ」(0768-22-8713)と「つき」(0768-22-8745)の民宿が二つある。
この島では、季節的に行われることがある。
休校になった小学校の近くに住んでいたおばさんによると、舳倉島では、3月にわかめを、5~6月に心太(ところてん)のもととなる天草(てんぐさ)を、7~9月にアワビやサザエを採りにいくそうだ。
そして、10~3月は休み期間。
島民の多くは輪島にもう一つ家を持ち、お休み期間中は輪島の家でゆっくり休む。
舳倉島の多くの家の屋根には、図太いロープが置いてある。聞くところによると、屋根が風で飛ばされないように、このロープをのせているとのことだった。
そして、自給自足のために、家にある小さなスペースの家庭農園で、茄子、大根、玉葱などを育てている。
ぼくらが舳倉島にいた10月、警察の駐在員は不在だったが、夏には人がいるので警察駐在員がいるそうだ。(続きはこちら)
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