2010年12月16日(木) – ぼくらはまだ、高知県 沖の島の弘瀬にいる。昨日は、市原商店の市原さん家族と楽しい夕べを過ごした。(昨晩の市原さん宅での夕べについてはこちら)
【高知県 沖の島 弘瀬の待合室にて。この中にテントを張って寝た】
今日、沖の島の有名人と出会うことになる。
一部の人は、この人に会わないと「沖の島のストーリーは語れない」、「そりゃ~いかんよ!」などと言い、この「人」の重要性が語られ、相当なキーパーソンということがわかる。
「一体、誰なんだこの島の有名人って?」
【田舎バックパッカーのテント関連グッズ。メスナーのテント、シュラフ(寝袋)、シュラフ用マットなど、コンパクトな旅道具】
ぼくらは、昨晩も強風だったため、定期船の待合所にテントを張って寝た。
島の木曜日の朝は早い。ごみを定期船が回収するので、みんな、ゴミ収集置き場にごみをもってくるのだ。
欠航が続くと、郵送物がたまるので、早朝から定期船付近に集まってくる人も増える。一部の人たちは、定期船がもってくる新聞や荷物を待つ。
昨日は欠航だったので、2日分の新聞を受け取り、休憩所で広告を詰めて、基本2人で配達する。
新聞を早めに受け取りたい人たちは、早朝からこの休憩所で新聞を待つ。「この新聞、あんたの近所の人に届けといて」という配送方法もあり、みんなで助け合って配送することも。
【高知県 沖の島 弘瀬の待合室にて 高知新聞に広告を入れて、配達の準備中。この広告を詰める作業は、ぼくらが寝た待合室で行われたので、ぼくらは朝早くテントを片付けて、みんなの邪魔にならないようにしなければいけない】
朝と夜、缶コーヒーを飲んで、毎日、この待合所に来る人がいた。
おじさんは33年間大阪で商売し、1991年(平成3年)に沖の島に戻ってきた。おじさんの名前は聞かなかったが、彼によると、沖の島にある、顔が描いてあったデザインの家は、「光くんのお父さん」の家。
彼は沖の島で、水道や電気整備、ごみ収集などの仕事をしているそうだ。
沖の島の空き家に関する賃貸について聞いた。沖の島には、ここで育った子どもたちが定年後に戻ってくるそうなので、あまり貸したがらないそうだ。
ちなみに、高知の就職率は100%。今朝、このおじさんとそんな会話を交わしていた。
【高知県 沖の島 – 欠航が二日続き、島民の人たちは郵送物がたまる。早朝から港に島民が集まる】
ところで、この島には、「荒木さん」がいることを、ぼくは言っただろうか。
ぼくらは弘瀬に着いたときから、この島にいる荒木さんの存在を知っていた。荒木さんの存在は、実に大胆なのである。
この荒木さんは、自分の車を赤で塗り、アサヒビール・スーパードライの「Asahi」風の字体で、「Araki」と書いている。
家の外壁には、Arakiと赤で書いている。まず、この独特な「赤色」の車が目立つ。
この島には、荒木さんの存在感が確実にあることがすぐにわかるのだ。
このスーパードライ字体の“Araki”ロゴに、“赤“が商標登録された、トレードマークとなっているわけである。
この島では、荒木さん以外に「赤」を使用してはいけないのだろう。
【高知県 沖の島 「赤い」荒木健吉さん(通称: けん坊)宅を初公開(?!)ハチマキ、シャツなど全てが赤い。沖の島で、「赤=荒木さん」イメージを構築している。阪神タイガースファン。きっと、そろそろ、髪の毛も赤く染まる】
なぜだかわからないが、荒木さんは、この沖の島で、“赤色“とスーパードライ字体の“Araki”を上手く使うだけで個人独自のブランド「Araki」を展開している。
遠くから見ても赤が目立つため、荒木さんだとわかるのだ。この島で、“ブランド“について勉強することになるとは思わなかった。しかし、この「荒木さん」、一体どんな人なのだろうか。
【高知県 沖の島 – アサヒスーパードライの字体風で、Arakiと書かれる外壁】
沖の島にいると、実に気になる存在なわけである。おそらく…いずれ…「沖の島=赤=荒木さん」のイメージが全国に知れ渡るときがくるはずだ。
ぼくらは、新聞配達前の事前準備の作業を見学し、その周りにいる人たちと挨拶をする。しばらくすると、新聞配達をする人たちが待合室を出て、弘瀬の村の人たちへ二日分の新聞を配達しに行った。
「赤い人」との出会いはここからだ。この「赤い人」が赤い軽トラックで、ぼくらがいる待合所にやってきた。
「あの赤いトラックは一体何なんだ」と思っていたが、とうとうその張本人がやってきたのだ。そう、この人が、荒木健吉さんだ。
荒木さんの家は、沖の島到着当日からお世話になっていた市原商店の市原さん宅の隣にある。荒木さんは今朝、市原お父さんから、ぼくらについて聞いたらしい。
市原お父さんは、荒木さんの一期上の先輩だそうだ。「こんにちは」と挨拶を交わし、「赤いですね~!」などと話しているうちに、「うちにコーヒーでも飲みに来るか?」と荒木邸に招待いただき、コーヒーやお菓子をごちそうになった。
家に入り、荒木さんの奥さんに「おはようございます」と言うと、「覚えてないの?!」と言われた。荒木さんの家で、奥さんに挨拶する前に、「どこかで見たことある顔だなぁ」と思った。
荒木さんの奥さんとは今朝、定期船の待合所で出会っていた。新聞配達前の作業中に、荒木さんの奥さんと挨拶をしていたのだった。
荒木さんはすべて赤だ。沖の島で「赤」と言えば、「そりゃー、『(赤=)荒木さん』という方程式が成り立つ」わけである。
【高知県 沖の島 荒木邸。靴下、タオル、パンツまで赤い!どこまでも手を抜かない赤さ】
頭に巻いている鉢巻きも赤。ジャージ、パンツ、靴下も赤。長靴をはいているが、長靴も赤く塗っている。とにかく赤にこだる。
「赤」にこだわりをもって、身近なものを「赤」にすることで、荒木さんは沖の島で、「赤=荒木さん」のブランド構築をしていたのだ。シンプルなやり方だが、うまい。
「動き回るブランド塔」だ。まれに違う色の物もあるか、『赤』色が近くにある。
【高知県 沖の島 荒木邸。荒木邸は綺麗に整頓され、木の雰囲気が自然な感じ。古民家っぽい】
荒木さんは1960年(昭和43年)、東芝に入社し、トランスの製造現場にいた。父親は、大工で家を建てていた。荒木家は、先祖代々、大工だったそうだ。
定年になり、2009年4月、荒木さんは、両親が残した築60年以上家がある沖の島に戻ってきた。
子どもの長男(34歳)は塾で教師を、二男(29歳)はトヨタなどの自動車会社にシステムを提供している自動車部品サプライヤーのデンソーに勤めるエリートな息子たち。
家の外壁には「Araki」と書いてある。この文字は、2010年の夏に、自分で書いもの。荒木さんは、60歳のときから、赤色の服を身に纏い始めた。そのとき以来、島内で、「荒木さん=赤」のブランドを構築し始めたのだ。
以来、「知り合いが赤色の服などを送ってきたりして、全てが赤になり始めた」と話す。家の中は、阪神タイガース関連のものが多い。
阪神に関係するサイン、カレンダー、タオルなどが壁に掛っている。本棚には、「竜馬が行く」などの漫画もある。
午前中に法事があるとのことで、お昼ごろに荒木さんの家に戻り、お昼を一緒させてもらうことになった。
【高知県沖の島の灯台へ向かう途中。島には猪(いのしし)が住みついている】
ぼくらは、お昼まで、島散策をすることにした。島にある灯台まで歩いた。通常、灯台の周辺はフェンスで囲まれていて入れないが、フェンスの扉に鍵がかかってなかった。
フェンス内に入り、灯台の中を窓からのぞくと、中に監視カメラのようなものがあり、赤いランプが光っていたので、それ以上近づくことをやめた。
灯台までの道は、猪が草や木の根っこを食い荒らした跡が残っていた。かなり獣臭く、道が本格的に荒れている。
愛媛県の八幡浜 大島の猪の獣臭さもひどかったが、ここ沖の島の灯台へと続く道も、どう表現していいかわからないが、汗をかきすぎた獣から「シャワーを浴びたい!」という叫び声が聞こえてくるような感じだ。
【高知県 沖の島の裏側へと続く道へと行こうとしたが、コンクリートの道は続いてそうだったが、雑草が生えていて、道が整備されていない】
「この道どうしちゃったの!?」と大声で叫べるほど、本当にひどく荒れている。話によると、沖の島にいる猪は、宿毛と橋でつながっている柏島から、沖の島まで泳いできたらしい。
灯台から戻り、島の裏へと続きそうな道をたどった。しかし、道路は、途中までしか整備されてなく、先には行けなかった。
コンクリートの道路が島の裏へと続いてそうだが、コンクリートから草がぼうぼうに生えていて島の裏まで行けなかった。誰も手入れをしていないのだろう。(続きはこちら)
【高知県 沖の島の季節風はとんでもなかった。船はじゃぶじゃぶと海の中へと入りながら進んでいた】
<前回のストーリー 『day 51.1 高知県沖の島の市原商店 家族との夕べ ~「自分で創造するか、流れに乗るか」~』>
<次回のストーリー 『day 52.1 高知県 沖の島の『赤い有名人』2 ~ けん坊の島案内で母島へ ~』>
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