2011年2月9日(水) – 15:15ごろ、野崎島(のざきじま)から小値賀島(おぢかじま)へと戻った。
漁協近くのスーパー裏にある散髪屋へ行き、小値賀到着の二日目に森クリーニング屋さんで出会った散髪屋の松永一郎さんに挨拶。
五島列島 小値賀の散髪屋・松永一郎さんに挨拶。小値賀 到着二日目に、森クリーニングで出会った(その時の話しはこちら) |
今日は確か…スーパーが早く閉まる日だったかな…と思い、スーパーに行くと
レジで「あー!知ってる!」と、ぼくらを指して声をかけてくる人がいた。彼女は、ぼくらをネット上で見たそうだ。
五島列島 小値賀の散髪屋「マツナガ」) |
おそらく、島唯一のカラオケ屋「Melody(メロディー)」の岩永弘子(いわなが ひろこ)さんが、ぼくらのことについて、ブログに写真付きで載せたのだろう。弘子さんとは小値賀到着初日に出会った人の一人だ。(その時の交番での一泊ストーリーはこちら)(弘子さんのブログはこちら)
島だと、みんながみんなを知っていて、話しが広まるのも早いなぁ。すぐに有名人になるね。
ぶうさんと美保さんは、「野崎島から戻って、次の五島列島の島へ行けなかったら、家に泊ってもいいですよ」と言ってくれたが、また泊るのも申し訳ない。既に二泊もさせていただいた。
ぼくらは、初日にテントを張った交番へ戻り、テントを張らせてもらえないか交渉しようとした。しかし、野田さんは不在。
「じゃ、とりあえず、森クリーニングの森さんのところに、挨拶しに行こっか。でもさ…バックパックを担いで行くと…『また泊らせて』と言ってるように見えるから置いていこうよ。悪いしね」と結花に伝える。
「そうだね」と、二人のバックパックを交番の駐車場に置かせてもらい、森さん宅へと向かった。
森クリーニングのアイロン作業部屋は、入り口横にあり、作業するテーブル前には大きな窓ガラスがあるので、外から丸見え。
三日前のように、アイロンがけをしている森銀一さんを外から、アップで撮影すると、銀一さんは「なんじゃい」と笑っている。ぼくらは中に入り、「こんにちは」と話しかける。
バックパックを持っていかなくても…なんとなく予感をしていたが…愉快で親切な森さん夫妻は、「ほら、早くあがりなさい」と声をかけてくれた。ちなみに、森さん宅内は、「さすが、クリーニング屋さん!」と思うほど、綺麗な家。
「今日も泊まっていきなさい。ほら、リュックを持ってきなさい」と…あらら…結局のところ、またお世話になり泊めていただくことになってしまった…
五島列島 小値賀 森クリーニングの“愉快な”森銀一さん。今夜もぼくらを温かく迎えてくれた) |
「また来ることを知ってたら、ご馳走を用意してたのになぁ」と、笑顔な森さん夫妻。ぼくらバックパッカーにとっては、森さん夫妻の親切さと笑顔が既に大きなおもてなしだ。
■森さん夫妻と夕飯を食べさせてもらいながら、愉快な時を過ごす。
ぼくらは今日行った野崎島について話し始めると…
銀一さんが、野崎島での思い出話しを始めてくれた。
森さんや島の人たちは昔、「薪」のために、野崎島へ行っていたそうだ。「暖」のためだけでなく、料理、アイロンなどと幅広く「薪」が活用されていた。その当時は、木炭でアイロンを温めて、クリーニング作業を行っていた。
銀一さんが最後の世代となったそうだが、昭和35年(1960年)ごろまで、薪専用の船があり、薪専用のリュックサックのようなものを担いで、大変な思いをして野崎島の“谷”へ、薪を採りに行っていたそうだ。
今となれば“便利な電気”だが…昔はその代わりに薪をエネルギー源として活用していた。単純な例かもしれないが、どれだけ、便利な時代をぼくらが過ごしているのかがよくわかる…ぼくらは全くその時代を経験していないので、当時の生きるための苦労や楽しさ?!をわかる由もない。都会に住んでいれば尚更だ。
■さてさて、銀一さんはなぜ…クリーニング屋さんを始めたのだろうか。
その背景は銀一さんのお父さんから始まった。
銀一さんの父親 とみぞうさんは、軍隊で仕事をしていた“軍属”(当時そう呼ばれていたようだ)で、船の中でクリーニングの商売をしていた。そんな背景から、お父さんは現在の郵便局付近で店舗を借り、百姓をしながら、クリーニング屋を始めた。
その後、クリーニング事業には国家資格が必要となる。そのタイミングで、銀一さんが国家試験を受けて、事業を引き継いだそうだ。
そう。知らなかったがクリーニング屋さんは国家資格が必要なのだ!
そして、森さん夫妻が現在住んでいる家を「森クリーニング」として事業を始める前提で建てた。昭和37年(1962年)に創業したそうだ。
銀一さんが後を継ぐまでの道のりはそう簡単ではなかった。今では常に笑顔が絶えない銀一さん。昔はお父さんとの喧嘩が絶えなかったそうだ。
なにかとぶつかりあったそうで、ある日、二階からボストンバックを投げて、家出をした。行き先は長崎市。
その後、銀一さん(当時20歳)は、小値賀を約2年間離れたそうだ。その間に、クリーニングの国家試験を取得した。銀一さんは大工にもなりたかったそうだ。
しかし、小値賀が恋しく…故郷の夢を見ては泣き、初めて“親”のありがたみがわかったそうだ。
そして、銀一さんが長崎から小値賀へ帰郷した時点で、特に謝ることなく、お父さんと仲直り。それ以来、喧嘩をしなくなったそうだ。
ひさ子さんとの出会いは、銀一さんが長崎から戻ってきたときのこと。ひさ子さんが高校2年生で17歳のとき、二人は出会い、恋に落ちたそうだ。お互い近所同士。
「この人…昔は髪の毛ふさふさしてたし」と、ひさ子さんは大笑いしながら話していた。そして、銀一さんが24歳“ぐらい”のときに、ひさ子さんと結婚。
二人の出会いについて聞くと、銀一さんは…
「おい!」と笑顔で恥ずかしそうに、ぼくを止めようとする。
しかし…ぼくは…止まらない。
銀一さんは、「言うな!」とひさ子さんにまた突っ込む。
すると、「この際、喋れ」とひさ子さんが突っ込む。
この二人の掴みどころがないやり取りは愉快で、ぼくらは本当に好きなのだ。
ひさ子さんが、銀一さんと最初に会ったとき、
「フィーリング的に、この人と結婚するのかな」と思ったそうだ。
担任の先生からは、「おまえ(結婚はまだ)はやいぞ」と言われていたそうだ。
っと…ひさ子さんが話しをすると
銀一さんは、「中川くん!あんまり聞くなよ!」っと…また笑いながらぼくを止めようとする。
「おれ恥ずかしか!おれは長谷川一夫に似てたんじゃ。尋問にあってるみたいだ!」と銀一さんが言うと…
「過ぎたことじゃが、言うたてよか。なんだ今さら、この禿が」とひさ子さんが突っ込む。
ホント面白い夫婦だ。「おいっ!」と銀一さんが笑顔で叫ぶ。
「しかしさ、あんたら、いらんこと言うな。おれ、ちゃんぽんも食っちょらんぞ」と…話しを変えようと必死な銀一さん。「ん?ちゃんぽん?!」とぼく。
もう面白すぎるやり取りだ…
小値賀の文化でもあるそうだが、銀一さんはひさ子さんの家族に3回も結婚の挨拶をしに行ったそうだ。3回の挨拶は小値賀の文化上、欠かせない。
両家族の両親が反対していたそうだが、それを振り切って二人は結婚した。
「ほら、結婚しなければよかったでしょ」っと、「周りに言われたくない」「負けない」と強い意志を持って、二人は辛い時も共に過ごしてきた。そう思われるほど、反対されていたとは…
なぜ反対されたのか…ってところまで、銀一さんのごまかしもありで聞けなかった…
途中、面白い突っ込みをしながらの話しだったが…良い話し。
「ひさ子さんのどんなところが好きでした?どういうところに惚れたんですか?」と引き続き聞くと…
「顔よね!」とひさ子さんが突っ込む。
この二人のやり取りは一体…
五島列島 小値賀 森クリーニングの“愉快な”森銀一さんとひさ子さん。今夜もホント…愉快なトーク炸裂! 二人の出会い話しになると…「中川くん、飲みんしゃい」「おれ恥ずかしか!」と銀一さん。小値賀では、本当にお世話になりました |
すると銀一さんは冷静に、「活発なところ。元気なところ。筋肉がね」と言いつつも、「もう、あんま言うなっきゃ」と恥ずかしそうに何度も言う。ひさ子さんは現在、バトミントンや卓球をしている。高校のころ、ひさ子さんは、陸上部に所属していたそうで、体はすごく元気。
二人の両親が反対していた。二人とも強い意志をもって、突き進んだ。「銀一さん!なんかすごいストーリーを持っていますね!」と言うと…
ひさ子さんが、「あなたは偉い、とっつあんは偉い!」と叫ぶ。
銀一さんが「おれの名前、銀一としちょっとけ」と、するとひさ子さんが「ぎんぎっら、ぎんぎっら」と歌い始め…
それになぜか…結花が「ぎんぎっら、ぎんぎっら」と続く。なんかよくわからないが…とにかくハッピーな夕べだぁ~
みんな酔っ払い状態なのだが…この酔っ払い状態が…”よくわからない”乗りなのだ。そこがまた愉快で良いんだよね。
「中川くん、飲みんしゃい」と、ぼくらは飲み続ける。
そんな感じで飲み続けると…会話は様々な方向へ飛んでいく…
ぼくらが昔、銀座・有楽町エリアの会社に勤務していた話しをすると、昭和37年の映画「有楽町で逢いましょう」の話にもなった。銀一さんは、この映画を5回も見たそうだ。フランク永井の歌でもあるそうだ。ぼくらは、聞いたこともない映画…と…歌だ。でも5回も見たことを聞くと、一度見てみたい。
そして、成人式の話しにもなる。銀一さんは自身の成人式の日、小値賀代表で、匙(さじ)を呼んだそうだ。「祖国日本の繁栄のために…」と読んだときに、「汗 がたがた!」「そして、漢字も読めない!」など緊張したことなどを笑いながら話す。
とにかく…いろいろと話しはとんだが…森さん夫婦との出会いは最高で…お陰さまで、なんとも表現しにくいのだが、「小値賀での思い出」「小値賀ならではのライフスタイル…」なのか、小値賀ならではのストーリーを二人からいろいろと聞くことができた。
ぼくらにとっては、「小値賀を代表する愉快な夫婦」だ。
そして、この夜、ぼくらは、小値賀到着当日に出会った岩永弘子さんに、唐揚げのお礼を言いたく、小値賀唯一のカラオケ居酒屋のMelody(メロディー)へ行った。ちなみに、弘子さんは、偶然にも、銀一さんのいとこだったのだ。
このMelodyは弘子さんが創業者。オープンして約17年が経つ。若いころ、弘子さんは、福岡にいた。音楽の夢を持ち、若い音楽アーティストを育成する仕事をしていたが、しばらくしてから、故郷の小値賀へ戻り、Melodyをオープン。弘子さんもその昔、ぼくらのように旅をしていたそうだ。今年は富士山に行きたいと言っていた。
五島列島 小値賀 居酒屋カラオケ「Melody(メロディー)」の岩永弘子さんとぼくらバックパッカー夫婦 |
ぼくがこれまでの生活に疑問を持っていたことについて話すと…
「みんなが思っていることだけど、みんな、その一歩を踏み出せない。日本人は、あまりにも早く人生に“線”を引いてしまう。小学校からこれからの進路について、心配している。気づいたら、描かれたレールの上を走っている」 そして、そこから会社人生が始まってしまう。
これからどうなるかはわからず、過去形で表現すべきかわからないが、確かに自分たちはそうだった…
なぜ、そう早く進路を決めて、走りだしてしまうのだろうか…
小値賀で最後の夜が更け…
弘子さんに、生ビールをジョッキ2杯ご馳走になり、森さんのところへと戻った。
小値賀…人情味ある島だった…
島の夜は静かだった。(続きはこちら)
<前回のエピソード 『 day 90.4 世界遺産登録が近い五島列島 野崎島 出発45分前の“豚骨ラーメン”』>
<次回のエピソード 『day 91 五島列島の中通島へ ~五島を南下するバックパッカー旅…どうする?~』>
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