2010年12月14日(火) – ぼくらが、どでかいバックパックを担いでいるので、会う人会う人に「どこからきたの?」と聞かれるが多い。
「鎌倉から来ました」と返答すると、「沖の島は、鎌倉と関係しているんだよ」と言われる。沖の島は鎌倉とつながっている。
鎌倉時代、幕府の重臣だった三浦大助の孫に、三浦則久がいた。
事情はよくわからない、三浦則久はなんらかの罪で政敵の北条家に追われ、一族と家来とともに三浦半島から西へと逃れたそうだ。
三浦一族は、沖の島の「仏が峠」に住居を構え、生活していた。
三浦家一族の墓 数十基の石碑は、沖の島の中央部の妹背山より、登山道を800メートル弘瀬側に下った場所にある。
そんな背景から、三浦家が沖の島の最初の定住者とされている。
三浦家は島民から「ご先祖様」と呼ばれているそうだ。沖の島で出会う人たちから、鎌倉との関係をよく耳にした。
磯釣り、ダイビングの他、沖の島では、だるま朝日と夕日の両方を見ることができる。光の屈折により、太陽が水平線にとけ込んで、その景色が「ダルマ」のように見えるため「だるま朝日・夕日」と呼ばれている。
だるま朝日・夕日は、冬場の大気と海水の温度差が大きく、冷え込みが激しい晴れた日に、海面から立ち上がる水蒸気によって光が屈折して発生する。
11月から2月ごろに、見ることができるそうだ。
村の造りは…
弘瀬や母島の村の通りは、古風な岩・石で造られている。そんな、石段や石垣を見ていると、(別に行ったことはないが)東洋のギリシャ・サントリーニ島のような風景の石造りの島だ。
そして、ほとんどの家に、干棚(ひだな)と呼ばれるバルコニーがついている。こんな風景をみていると、ギリシャのサントリーニ島の和風バージョン。
2009年(平成21年)3月、この石段は、「島の宝100景」に選定されている。
その後、弘瀬の定期便の待合所となりにテントを張ったのだが。とにかく風がものすごいことになっている。
テントを張るのも苦労した。まずテントを地面に敷いていられないのだ。テントをそのままにしておくと風に飛ばされてしまうので、合計で約40キロ弱あるぼくらの荷物を中に置くのだが、それでもテント半分が浮いてしまう。
待合室は24時間開いているので、携帯電話やカメラの電池を充電して、寝るまでそこで待機した。
寝るときに、テントに入る。しかし、何度も言うが、とにかく強風がものすごい。ぼくらが沖の島に来た昼ごろは風速18メートル弱だった。
定期船の欠航ボーダーラインぎりぎりだ。今夜もおそらくそれぐらいの風速はありそうだ。
1時間ほどテントの中で寝ていたが、風が止まない。この強風でテントが引っ張られ、壊れてしまうことを心配して、夜中過ぎに待合所の中にテントを持っていくことにした。
テントから荷物をだして、待合所にあった、畳一畳の机、椅子をずらして、待合室内にテントを無理やり入れて、テント内で寝たぼくらだった。(続きはこちら)
<前回のストーリー 『day 50.3 高知県沖の島で「入浴交渉中」 ~ぼくらの救世主『市原商店』との出会い~』>
<次回のストーリー 『day 51 高知県沖の島を散策 ~ 市原知佳さん勤務の「あったかふれあいセンター」 ~』>
<おまけ情報: 高知県 沖の島磯釣り・宿泊・ダイビング 連絡先情報>
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