2011年1月30日(日) – 前回の話しに引き続き、ぼくらバックパッカー夫婦は、長崎原爆資料館のボランティアガイド「平和案内人」の浦川卓(うらかわ すぐる)さんに館内を案内していただいている最中。
ぼくらが質問ばかりするので、館内のガイドはいつもよりも長引いている様子…(前回の話しはこちら)
さて、原爆の“パワー”に関する案内に戻る。
爆心地から0キロにおける、爆風の風速は、毎秒440メートル。爆心地から1キロ離れたところで毎秒170メートル。ちなみに台風の風速は毎秒約40~50メートル。
爆心地の爆風は台風の約10倍、1キロ離れたところで、爆風は台風の約3倍に匹敵する。
ぼくらはあらゆる離島への定期船に乗り始めて、ようやく風速の感覚がわかるようになってきた。
風速が毎秒約17メートルになると船は大抵欠航になる。高知県にある四国の最南端にある沖の島行きの定期船で、風速17メートル/秒の船に一度乗ったが、半端ない揺れだった。
また、その日、強風の中、テントを張ったのだが、ぼくらの重いバックパック2つ(約30キロと約10キロの合計40キロ)を中に入れても、テントが若干動くほど。風がテントにぶつかってくる音で寝られないし、テントが壊れることを心配してしまう。
それをイメージすると、毎秒170メートルの半端なさがわかる。ぼくらのテントとバックパックは楽に吹き飛ばされる… 比較の例が微妙なところではあるが、最近ぼくらが体感した風速ということで、自身の例を挙げてみた。
ここには爆風の強さがわかるモノの展示もある。割れたガラスの破片が吹き飛び、木の内部に突き刺さるほどの爆風の力だ。33年間、ガラスの破片が突きささったまま、そのガラスを包み込んで大きくなった木が展示されている。杉本さんという人が、河川工事を行っていた場所で、ガラスが内部に入っていたこの木を見つけて回収し、家の花瓶の台として使っていたそうだ。
杉本さん自身、爆風により背中にガラスが突き刺さり、生活をしていたことから、杉本さんは、この木を“自分と同じ気持ちを持った木”として大切に保管していたが、しばらく経ち、杉本さんは、「多くの人に被爆にあったこの木を見てほしい」と、木を資料館に寄贈したそうだ。
約30年かけて造られ、当時、東洋一素晴らしい教会と言われていた浦上天主堂も崩壊した。
その天主堂も原爆資料館内で、レプリカとして、再現されている。
天主堂は爆心地から500メートル離れた場所に建っていた。そこに立っていた銅像の鼻もかけて、どこかに吹き飛ばされた。この天主堂で、2人の神父、数十人の信者がお祈りをしていたそうだが、全員建物の下敷きになって亡くなった。
日本一キリスト教徒が多かった長崎県の浦上地区には、約12,000人の信者がいたそうだが、うち8,500人が原爆で亡くなった。
今は入れないそうだが浦上天主堂の「被爆マリア像」がある小聖堂の壁には、原爆で亡くなった3,600人の名前が刻まれているそうだ。
現在の長崎市の人口は45万人、うち45,000人がキリスト教信者。長崎市の人口約1割がキリスト教徒で、9割が仏教徒だそうだ。
ちなみに、もっと過去に振り返ると、長崎のほとんどの人々はキリスト教徒だったそうだ。1587年、豊臣秀吉の時代に、キリスト教が初めて弾圧された。1873年(明治6年)に、キリスト教禁止が撤廃され、再び宗教の自由が広がった。
また、浦川さんが卒業した城山小学校には1,500人の生徒がいたが、生き残ったのはわずか100人。
原爆により、今後75年間、長崎には草木も生えない不毛説が広がったが、電車は原爆投下同年11月に運行を再開。1955年(昭和30年)(戦後10年後)から、長崎の復興が着々と始まったそうだ。
次世代の人々にも原爆や戦争の悲劇、核兵器の恐ろしさを伝えようと、被爆者の人たちは、“平和活動”を続けている。その人たちの一部写真は、ここ資料館内に展示されている。
谷口稜曄(たにぐち すみてる)さんが被爆したのは、16歳のとき。郵便配達中、30メートルも吹き飛ばされ、熱線を浴びて背中に大火傷を負った。両親は「いつ死んでしまうのだろうか」と心配をしていたそうだが、1949年(昭和24年)に郵便局で復職した。2010年末にはアメリカで原爆に関する演説をしたそうだ。現在、被爆者協会の会長を務めている。
山口仙二(やまうち せんじ)さんが被爆したのは14歳のときだった。三菱長崎兵器製作所で仕事をしていた。何度も国連を訪問して、原爆の体験談を話したそうだ。現在、島原の老人ホームにいるとのことだった。
吉田勝二(よしだ かつじ)さんは、爆心地から850メートル離れた場所で被爆。ケロイドになり、13ヶ所の皮膚を移植して回復したが、耳の形だけは元に戻らなかったそうだ。2010年4月1日に肺がんのため死去した。ぼくらを約2時間も案内してくれたボランティアガイド「平和案内人」の浦川卓さんが彼の話しを引き継いだそうだ。被爆体験記を引き継ぐための継承部会も発足している。
「被爆者の中でも、一番明るい人だった。吉田さんは毎年、8月の原爆に関する勉強会に必ず出席していた」と浦川さんは吉田さんとの思い出を振り返る。そして、毎回1時間20分ほど話して「我々のような、被爆者を二度と作らない。本当の平和がくることをお祈りしたいです」と締めくくっていたそうだ。
吉田さんは原爆投下から約20年後の1963年(昭和38年)ごろから、原爆の体験を大衆の前で話し始めたそうだ。被爆者は差別されることが多いため、吉田さんはしばらく自分を外に出さなかった。
当時、被爆に関する話しをすると、就職、結婚などで、不利になることが多々あった。
吉田勝二さんは就職後、結婚して子どももいる。職種は営業。営業で自宅訪問をするのだが、玄関を開けた子どもは吉田さんの顔を見ると、家の中へ逃げて行くなど、被爆者が差別され苦労した時代があったそうだ。
また、爆心地(長崎市松山町171番地)の松山町では、300所帯、1,860人が生活していた。この松山町では、被爆しながらも唯一(当時)9歳の女の子1人だけが生き残った。彼女の名前は黒川幸子さん。当時、爆心地/家周辺から120メートル離れた防空壕にたまたまいたそうだ。
角尾晋(つのお すすむ)さんは、「入市被爆者」。長崎医科大学学長を務めていた角尾さんは会議のために、東京へ行った。東京からの帰り、被爆直後の広島を歩いて通過し、8月8日に長崎に戻った。そして、8月9日に医学部で被爆、8月22日に亡くなった。
放射線により、発熱、嘔吐、下痢の症状が出た人たちの多くは、年内に亡くなったそうだ。症状は様々で、頭が小さく知能指数が劣る子どもも産まれ、若い人でも白内障になったり、白血病になった人も多かった。爆心地2キロ圏内にいた人たちは、被爆者健康手帳が交付され、医療費の支援を国から受け始めたそうだ。
日本にいた外国人で最も多かった被爆者は韓国人(約2万人)。
そこまでの戦争の悲劇を目の当たりにしても…
現在、世界中に、約23,000個の原子力爆弾があると言われている。
アメリカが約1万弱、ロシアが1万5000発(想定)、イギリスとフランスは100発。
兵器は無くならず、戦争は繰り返されている…
1982年4月26日、ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサが長崎原爆資料館を訪れたとき、「核兵器を持っている世界のリーダーたちは資料館にある写真を見に来るべきだ(“All the leaders of the nuclear States should come to Nagasaki to see this photograph”)」と言い残し、長崎を後にしたそうだ。
軍事力という「力」「脅威」を、各国に対して見せつけ、お互いに“力”をぶつけ合わないと、あらゆる問題は解決しないのだろうか… それとも、この“力”のバランスが、ある意味、平和をつくるきっかけとなっているのだろうか。
兵器で攻撃し、人を殺すことにより、“憎しみ”が生まれる。親族などが殺され、憎しみをもった人たちが、また攻撃をする。そこで攻撃された国に、また更なる憎しみが生まれ反撃する。
これを繰り返していたら、“憎しみ”は絶えず、戦争も絶えない。「そんなシンプルな問題ではなく、簡単に解決できない」と思うかもしれないが、“力”を使わず常に平和的に話して、何事も進められないのだろうか。
平和案内人の浦川卓さんは約2時間、質問ばかりしていたぼくらを丁重に資料館の案内をしてくれた。
原爆資料館の訪問後、ぼくらは平和公園に行った。ここには、平和を祈る国々が、長崎に寄贈した平和の象徴を意味する銅像が公園に展示されている。
さて、ぼくらはこれから、長崎県北部の西海(さいかい)方面へ向かう。
っと、その前に、朝から何も食べてないので、腹ごしらえをして…“出発準備”だ。(続きはこちら)
<前回のストーリー 『day 80.1 “戦争の悲劇”を長崎原爆資料館で ~ 福岡県小倉を投下の予定地にしていたとは ~』>
<次回のストーリー 『day 80.3 長崎県大瀬戸町 暗闇での出会い』>
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