2010年11月17日(水) – 怒和島(ぬわじま)の家の造りはユニーク。
土地の中央が中庭になっていて、その中庭を(居間、台所、寝床などの部屋がある)家、風呂場、洗い場、倉庫、トイレなどで四角に囲っている。この中庭からは、空が見え筒抜けとなっている。
この中庭が玄関のようになって、家の中(土地)への入り口となっている。
都会では見たことがない珍しい造り。
漁師や農家の人たちが靴のままで、家への出入りがしやすいため、このような造りになっているそうだ。
【愛媛県 怒和島 家の造りは、ざっとこんな感じだ】
【愛媛県 怒和島 中庭がある家。玄関(家への入り口)、居間、台所へに囲まれている】
【愛媛県 怒和島 中庭がある家。周りには洗濯機やトイレがある】
ぼくら田舎バックパッカーは自分たちの冒険の背景、怒和島訪問前に行った興居島(ごごしま)で、山田栄子さんと出会ったことについて、田中政利(たなか まさとし)さんに話した。
山田栄子さんは島博覧会で「島博弁当」を担当していた。
田中さんは島博覧会の実行委員長であったことから、山田栄子さんを知っていた。
どうやら栄子さんは、興居島周辺の島々で、かなり有名な人らしい。
興居島でも、多くの人たちが栄子さんを知っていた。何かあれば「栄子さん」と頼りにしていた。
田中さんは、島博覧会について、「『こんなに良い島々があったんだ』と怱那諸島(くつなしょとう)の訪問者に感じてもらえるきっかけとなれば、それが第一歩だ」と話していた。
確かにぼくら田舎バックパッカーも、これまで四国の瀬戸内海に多くの島々があったこと、怒和島や興居島など怱那諸島があったことを知らなかった。(そもそも、ぼくらは、島博覧会が開催されていたことを知らなかったが…)
【愛媛県 怒和島 田中さん夫妻とぼくら田舎バックパッカー】
田中さんは、ぼくらに島博覧会の映像を見せてくれた。
田中さんが特に拘っていた部分は、怱那水軍の子孫が島博覧会のカラオケ大会のようなイベントに出演していた場面だった。(忽那水軍についてはこちら)
この島博覧会には、大食いのギャル曽根、お笑いの長州小力(しょうしゅう こりき)、波田陽区(はた ようく)の有名人も参加していた。
しかし、田中さんは個人的に、彼らよりも怱那水軍に興味があったのだ。
著名人の映像は撮らず、怱那水軍 子孫の人の映像のみを撮影していたそうだ。それほど怱那水軍に執着していた。
故郷を捨てる教育
そして、教育に関する話しにもなった。現在の教育は、「『故郷を捨てる教育』がメインとなっている」と、田中さんは話す。
学校は、子どもたちに「立派な人になりたければ、良い学校へ行きなさい」という教育をする。
世間一般的に言われている「良い学校」は都会に集中している。
島や田舎を出て、都会の学校へ行った子どもたちは、そのまま都会に残り、田舎には帰らず、都会で仕事をする。
過疎化は進む一方。
田舎の学校が、生徒の子どもや彼らの親に「良い学校は都会にある」と教育するため、親は「良い大学」がある都会へと、子どもを送り出す。
「良い/優秀な学校に入学することが悪い」と言っているわけではない。しかし、それが田舎の過疎化につながってしまう。
これから、故郷をより評価する教育に転換しなければ、田舎の素晴らしい自然環境がなくなってしまうかもしれない。
「島の良さ、島民との触れ合い」など、田舎の教育/学校の科目で、田舎の良さも平行して伝えることで、自分の故郷について、より深く学び感じることができる。
例えば、英語の授業では、地域について調べ、英語でプレゼンテーションするスタイルを授業の一環として取り入れる。
理科では、地元の山などを散策して、海、動物、花など、地元ならではの生態系を調べる。
体育では、山登りを取り入れる。
国語では、地元の人たちの話をベースに作文をするなど。
シンプルな発想だが、生徒は、少しでも「故郷の良さ」を実感し、地域の人と触れ合い、楽しく学ぶことができるかと思う。
「田舎に戻ってくる」きっかけになるかもしれない。
また、都会では、あらゆる田舎でのライフスタイルについても、教えるべきである。
より多くの生活スタイルを発信することの大切さ
都会以外での暮らしがあることを、次世代に伝えて、より多くの生活スタイルの選択を情報発信することで、地方での暮らし方を学ぶことができ、人口が都会に一極集中せず、田舎にも分散するかもしれない。
これまで田舎暮らしを知らなかった都会の大人たちは、学校卒業後、社会人になり、旅行で田舎に足を運び、田舎を体感。
旅行でようやく、大人になった若者が、田舎暮らし知り、そこに住むことを選択する人たちが、着々と増えている場所もあるだろう。(※アメリカと日本の教育についてはこちら。)
【愛媛県 怒和島 明日、松山市立怒和小学校へ行ってみる】
最近、後継者に関する話を耳にしていたので、「怒和島に息子さんを呼び、農園を継いで欲しいですか?」と聞いてみた。
ミカン農家の将来の不安から「ミカン畑を継いで欲しいと言う自信がまだない」と話していた。
田中さんは「優れたリーダー」、その時代時代で必要とされるリーダーが必要だと言う。
「そのヒントが怱那水軍にあるかもしれない」と…。田中さんは(前の記録にも書いたが)「忽那水軍は、時代を読むリーダーだった。
この瀬戸内海で約400年もどう生き延びたのか、時代背景に基づく彼らの行動を探れば、今後怱那諸島が発展した理由についてわかるかもしれない」と繰り返し話していた。
ぼくは今後、自身の広報スキルを活用して、地方を活性化させる仕事をしたいと思っていることも伝えた。
すると「中川くんには是非、田舎と都会の『接着剤』になってほしい。田舎と都会がわかる人が必要、そこにビジネスチャンスもある。田舎と都会をくっつける。田舎の役に立つという気持ち」が重要だと話していた。
(いろいろと話が飛ぶが…)田中さんは昭和27年、第1回目の農村プログラムの日本代表として、アメリカのカリフォルニア州に滞在していたことがあったそうだ。そんな背景があったからか、息子さんもカリフォルニアに留学した。
息子さんは最近、三津駅周辺で、お年寄り向けのカフェレストランをオープンしたそうだ。
田中さんの口癖は、(息子さんは島にいないが)息子さんについて話すとき息子さんを「ぼうず」と呼ぶ。
そして、奥さんを「ぉお–い」と、優しそうで硬い口調で呼ぶ。なぜだか、ぼくの頭の中で、その掛け声や言い方が鳴り響いていた。
今日は朝から長い一日だった。
【愛媛県 怒和島 田中さん宅で】
【愛媛県 怒和島 今夜 ぼくらはここに泊まる】
ぼくらは、田中さんの従姉弟の家へと歩いて戻り、リビングに寝袋用のエアマットを敷き、寝袋に包まり、休み始めた。
※ちなみに、ぼくら田舎バックパッカーは、田中さん従姉弟宅に泊らせてもらったが、島博覧会の資料によると、怒和島には、杉原(Tel. 089-999-0058, 年中無休・要予約)という民宿が一軒あるそうだ。<続きはこちら>
<前回のストーリー 『day 31.6 愛媛県 怒和島 (動画と写真)“釣りガール”結花子、40匹の鯵をさばき料理する』>
<次回のストーリー 『day 32 愛媛県 怒和島 学校訪問第3弾:怒和小学校を訪問 ~「故郷を捨てない」教育(後編)~』>
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