2010年11月17日(水) – 今年(2010年)の島博覧会の委員長/松山離島振興協会の会長を務める田中さんからは、この怱那諸島の地域で栄えた「怱那水軍」という言葉がよくでた。
田中さんは、何かの背景に、「怱那水軍」を絡める。「怱那水軍とは一体…?水軍?海賊か?」
【愛媛県 怒和島 「怱那水軍とは…」、「あそこに見える島が…」 ここからは、中島、興居島、釣島が見える】
【愛媛県 怒和島から見える島々】
怱那水軍は怱那諸島海域を拠点とし、瀬戸内海で勢力を拡大していった海軍。平安時代、怱那氏は荘官として中島(忽那諸島の一つの島)の実権を握っていた。
怱那一族は1184年、藤原道長により、中島に配流された。
1189年(文治5年)、怱那兼平(くつな かねひら)は、中島にある標高289.2mの泰の山に築城。
その後、鎌倉幕府からは、土地の所有権が承認される。
忽那水軍とは
約400年間、中島周辺は、怱那水軍の拠点となった。
皇室が、南朝(大和国吉野行宮(やまとのくに よしのあんぐう))と北朝(山城国平安京(やましろのくに へいあんきょう))の南北2つの王朝が存在し、分裂した時代の南北朝時代(鎌倉時代後)、1331年ごろ、忽那重清(くつな しげきよ)と弟の義範(よしのり)は忽那七島を拠点に、三重県や和歌山県がある紀伊半島南東部の熊野水軍とも提携し、勢力を拡大した。
怱那水軍は、瀬戸内海における南朝方の有力な存在となる。
1339年、怱那義範は忽那水軍を率いて、現在の山口県の東南半、周防国大島で、北朝方と戦う。
そして、1348年、北朝方拠点の岡山県と香川県に挟まれた塩飽島(しわくじま)を攻撃して占領した。
翌年1349年、周防国(すおうのくに)の屋代島(やしろじま)(別名:周防大島(すおうおおしま))に攻撃をする。
この時代、怱那水軍は、瀬戸内海を制した、水軍だった。忽那氏は義範以後、衰退していったそうだ。
田中さんは、約400年間、怱那諸島を盛り上げてきた怱那水軍に、今後島が盛んになる何らかのヒントがあると考えているようだ。
ぼくがわかった怱那水軍は上記で書いた内容のみ。田中さんが考える島の発展と怱那水軍をリンクさせ、より理解を深めるには、ぼくにはもう少しリサーチが必要…
【愛媛県 怒和島 山へと続くみかん運搬用のレール】
約800年前と推定されている村跡を見学後、ぼくら田舎バックパッカーは農道をとおり、島の標高が高いところへと連れてってもらった。
【愛媛県 怒和島 こんな急斜面からミカンを運搬用レールにのせて出荷する】
ちなみに、怒和島の農道には、33億円かかっていて、国が85%、県が8%、残りの約2億円を地元が負担したそうだ、などという話も聞いた。<続きはこちら>
<前回のストーリー 『day 31.2 愛媛県 怒和島 「島博覧会」委員長 田中政利さんとの出会い』>
<次回のストーリー 『day 31.4 愛媛県 怒和島の『猪』と『ミカン』 ~動物の行き場はあるのだろうか…~』>
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